職場の人たちに「座禅修行に行ってきます」と言っても驚かれません。
どうも、サムサラです。
2017年の11月に、禅寺に修行に行きました。
そのときに感じたことなどをそのときやっていたブログにまとめていたのですが、少しリライトしてこっちにも公開していこうと思います。
なぜ人は禅寺に行くのか
現代社会に生きる私たちの日常はものすごい量の情報が溢れていて。その情報量のせいで「これでいいのかな?」とか「ほんとはこっちのほうがいいのかな?」とか。迷っちゃうんだなということが、すごいよくわかりました。
わたしが修行に行ったお寺は、スマホ禁止・パソコン禁止。
※厳密にはまったく禁止ではないんだけど、意図的にみんなロッカーに入れっぱなしにしてました
テレビはもちろんないし、新聞もない。外から入ってくる情報が一切ない。まあ、強いて言うならお天気くらい 笑
ああ、今日は寒いね。
太陽が出てきたね。
ちょっとパラパラと降ってきたね。
そのくらいの情報しか入ってこない。
あと、ごはんのにおいw
※ごはんめっちゃ美味しかった。まじでまじで!!
今日は天ぷらか!!
ごま油!!
おお、じゃがいものにおいがする!!
って、みんなものすごく嗅覚が敏感になっていました。
情報収集のアンテナが、自分自身の五感だけなんですよ。視覚以外の五感。
普段の「暑い」「寒い」って感覚とはちょっと違うんですよ。
もっと表現が細かく劇的にロマンチックになったり繊細になったりします 笑
今日はピンと張り詰めた感じが気持ちいい朝だね、とか
急に空気が優しく緩んできた感じがするよね、とか
みんないきなりポエマーになれます。
そのくらい、繊細に五感が仕事してくれるんですよ。
これは発見でした。
めっちゃ発見。
自由時間は本を読んだりしたけど、普段のわたしたちの生活ほどの情報量ではない。スマホに際限なく流れてくる情報とかニュースとか。そういうものはない。
無尽蔵に入ってくる情報から離れたら、普段のわたしたちのそばにあったはずの情報に気付けるってことに気付いた。
日常生活にもきっとこういう情報はあったはずなのに、気付けてないんですよ。刺激に負けちゃって、繊細な情報は感じられなくなってる。アンテナ錆びついてるってことなんですけどね。
わたし、情報から離れた生活をしたかったから禅寺に行きました。
電車に乗ればみんなスマホを見ていて。
エレベーターに乗ればみんなスマホを見ていて。
片手にみんなスマホを持っていて。
なんか、わたしたちってスマホにコントロールされてるの?
スマホの奴隷なの?
って気分になってきて、それで、離れたくなりました。スマホからも、PCからも、情報社会そのものからも。
このころは意識してスマホから離れるようにしていたけど、一度がっつり離れてみたいなと思った。それで、禅寺に行って、4日間ずっとロッカーにスマホを入れっぱなしにしました。
私が禅寺に行きたくなったのはそういう理由からでした。
人の数だけレジャーがある
そもそもなんで禅寺修行なのかってことを、いろんな人に聞かれました。
サムサラは、昼間はふつうに会社員やっています。
職場の人たちに「は?禅寺?出家すんの?」とか聞かれました。
本気で出家するんだと思ってた人もいたくらいです 笑
たぶんわたしが某仏教系大学の大学院の科目履修をしていたからだとは思いますが。
前にも書いたとおり、わたしは情報から隔絶されたところで、静かに過ごしたいなと思ったのです。だから禅寺に修行に行くことにした。
テレビやインターネットからあふれる情報から意図的に離れて、自然の中で、自然の音や自然からの情報だけに囲まれてのんびりしたいなあと。
まあ、一種のレジャーです。
南の島でのんびり〜とか
温泉でのんびり〜とか
そういうのと変わらない感覚です、わたし的には。
普段の仕事が相当なスピード感を求められる業界(&職場)なので、まったく正反対の生活がしたくなるんですよ、たまに。
だから、意味もなく10時間以上鈍行列車に乗って旅に出たりするんです。そののんびり感を最大限に体感したくて。
わたしのなかの「のんびりしたい」ときの選択肢のひとつだったわけです。禅寺修行が。
うん。
理解不能ですよね。
でも、なんとなく共感できる人もいるはず。
で、実際どうだったかっていったら、やっぱりのんびりでした。
「修行」って名前はついているし、もちろん中身は修行なんだけど、本気のやつよりだいぶゆるいと思います。なんだかんだ言って休憩時間はあるし、お昼ごはんから夕食前の座禅までの間はがっつり自由時間だし。
昔やってた体育会系公務員の訓練生活と比較したら、極楽浄土のようなところでした。
※たとえもソレっぽくしてみました
参加者は20名以上。
お寺に住み込んで修行を続けている人も数名いるけど、あとはみんな、この修業のために入山したひとたち。休憩時間にはお互いのことを話したり、悩みを打ち明けてくれる人もいたりして。
すごく貴重な経験でした。
普段の生活って出会う人の種類(って言うと語弊があるけどニュアンスでわかって)って限られてくるし、わりと類友じゃないですか。
でもここは、いろんな職業・いろんなバックグラウンド・いろんな「普段の毎日」のある人たちが集まっていて。
すごく不思議でした。
来た目的も人それぞれ。
私みたいな「完全レジャー」の人のほうがレアでした。
悩みとはなんだ
夜の座禅3セットが終わってみんなでお茶しながら談話室で話していたときのこと。「あなたはなにに悩んでるの?」と常連さんに聞かれて、私は衝撃を受けました。
え。
なにも悩んでないです。
悩んでいる人が来る、っていう前提なの?ここは。
なにせわたし、「完全レジャー」です。
「のんびりしに来ました〜(・∀・)」っていうのが参加の理由。
もちろん、座禅修行生活をしてみたかったというのは本当だし、静かな場所で自分自身と向き合いたいな、とは思ってた。でもそれは、「悩んでいるから」ではないのです。
「悩んでいない」っていうのは「悩みがない」ということではなくて。決めあぐねていることや迷っていることはあるけど、「悩んではいない」というか。
ニュアンス難しいけど。
伝わるかどうか微妙だけど。
わたしも人並みにいわゆる「悩み」的なものはあると思うんですよ。でも、それに振り回されたり、心をかき乱されているわけではない。
わたしは「悩み」を解決するのは自分自身でしかないと知っているし、答えを出すのも自分自身でしかないと思っているし、「決める」のも自分自身しかいないと知っている。
だから、他の人の意見や考えを参考にすることはあっても、答えを誰かに求めたり外の世界に求めたりはしない。自分で答えを出すしかないし、自分で決めるしかないから。
いろんな人のいろんな悩みを聞いたけれど、やっぱり、最終的には自分で「決める」しかないんですよ。みんなもそれはわかっていた。自分の中で既に答えが出ていた、本当は。
でも、その答えを採用しない。
採用するということを「決めない」
どうして決められないかというと、
その決断によって未来がどうなるか不安。
それが怖いから「決めないでいまのままの、なにも変えない」を選ぶ。なにも変えないほうが未来の予想がつくから。予想できる未来のほうが安心だから。たとえその未来が自分にとって不本意であったとしても。
そういうことなんじゃないかなあと。
どうして「決められる」人と「決められない」人がいるのかって話を、わたしはたぶんそのときしたと思う。
未来から逃げたい理由
「悩んでいる」という人の中には、実はもう自分で答えを持っている人がいます。
答えを持っているし、なんならそれ以外に選択肢もないよね?という状態だと自分でわかっているんだけど、それでも「悩んでいる」という人がいます。
その答えを「答え」として受け入れることができないというか、受け入れるのが怖くてできない、ということなんじゃないかと思います。
それを答えとして受け入れてしまうということは、なにかを「決める」「決断する」「覚悟する」ことが必要だから。
でも決めたくない。
決断したくない。
覚悟したくない。
だから受け入れたくない。
それを「答え」としたくない。
受け入れたくないけど、答えは自分の中で出ちゃってる。
でも受け入れたくない・・・
という堂々巡りで、「悩んでいる」という状態が続いているという・・
要は、逃げたいんです。
その現実から。
ちがうな。
現実逃避というよりかは、「未来逃避」かな。
自分で出した答えを受け入れて行動すると、未来が変わっちゃう。それが怖い。未来が怖い。
未来は見えない。
未来のことはわからない。
未知のものは怖い。
だから未来から逃げる。
不満があってもしっくり来ていなくても、「いま」を続けるほうがラク。
そういう理由で「悩み続けている」人もいるんじゃないかなと思っています。
未知のものは怖いです。
知らないから不安になるんです。
でも、いままでとなにかを変えるということは、いままでとは違う明日がくる可能性があるということで。知らない明日がくるのが怖くて、「変える」ことを拒む。
じゃあみんながみんなそうかっていうと、未来を変えるための行動をする人もいる。未知の明日に対して不安を感じていても、やっぱり「変える」ことをする人もいる。
両者にどういう違いがあるのか。
わたしは、「自信」だと思います。
自分を信じる力
自分との信頼関係
みんなが思っているような『不安がない』みたいな意味合いではないです、自信って。不安があっても自信は持てます。
自分をどれだけ信じられるか
自分とどれだけ信頼関係を結べているか
その違いなんじゃないかなって思います。
いまふうの言い方すると「自己肯定感」かしらね。
そんなことを、座禅修行2日目の夜に考えました。
手段は目的ではない
修行2日目の日記というか、メモにこんなこと書いてあった。
伝わりますかねw
なにせ自分しか読まない日記だから、自分にわかるようにしか書いてない。
もうちょっと詳しく書いてみます。
わかりやすい例えがないかなと探してみた。
わたしはお片付けが好きなので、お片付けで例えてみます。
「片付けで人生変わるよ!」と言われて、お片付けをしたとする。
大切なのは、「片付けを通して学びを得る」ことや「気づきを得る」ことであって、片付けはあくまでも手段なんですよ。
「外側だけを真似る」とは、片付けが手段ではなく目的になってしまうこと。
「片付け」という外側からのアプローチがきっかけになって「自分自身」という内側へのアプローチが起これば、人生は変わるかもしれない。片付けという手段を通して学びや気付きを得ることが、内側へのアプローチ。
そこを理解しないで「外側だけを真似る=片付け」だけをしても、内側はなにも変わらない。自分自身になにか問題や課題があるとしても、内側へのアプローチがなされていないから、自分自身はなにも変わらない。
お部屋はきれいになるけど、「人生が変わる」までのことは起こらない。
そういうかんじ。
修行生活2日目で感じたのは、「座禅」「修行」という体験を通して得た学びなり気付きなりがきっかけになってその後の人生を変えることはあっても、「座禅」「修行」そのものが人生を変えるわけではないんだろうなと。
たかだか3泊4日です。
この3泊4日で人生変わる!とは言いません。
住職もそんなこと思ってません(テレビで言ってた)
「この体験を、なにかしらのきっかけにしてもらえれば」と言ってた。
わたし、自己啓発系の本とかセミナーとかも同じだなと思う。
スピリチュアルも。
読んだだけ、参加しただけではなにも変わらない。
その体験からなにを得るか。
その後、自分とどう向き合うか。
そして、自分でどう変化を起こしていくか。
外側だけを真似てないか。
外側からのアプローチを通して、内側にもアプローチしているか。
そこの見極めって大切なんじゃないかなって。
そういうことを日記に書いてました。